スキップしてメイン コンテンツに移動

【三段跳】高校2年生の彼女は三段跳びをはじめた。~熊本の少女が全国インターハイに出場するまでの8年間の話。(その1)


2009年夏。小学4年生の彼女は熊本空港から飛び立った。

その日、九州の空は晴れ渡っていたはずだ。
彼女を乗せた飛行機が熊本空港から飛び立った。
8年前の夏休み。
大阪への日帰りの旅。
彼女は小学4年生だった。
隣には大好きなお父さんとお姉ちゃんが座っている。
だから楽しいはずだった。
でも、旅の目的が彼女にはちょっと不思議だった。

「どうしてシューズを買うためだけに、飛行機に乗ってわざわざ大阪まで行くんだろう?」

空から降りた大阪は暑かった。
空港から電車を乗り継ぎ、ようやくたどり着いた駅。
その「鶴橋(つるはし)」という駅名が、彼女にはなぜか強く印象に残った。
しばらく歩くと店についた。
そこは店でないような店だった。
お父さんにうながされて中に入った。
彼女は少し緊張したけど、お姉ちゃんといるから大丈夫だった。

***

8年前に熊本県からやって来た、その姉妹の足型測定用紙が今も店に残っている。そこにはこんな風に記されている。

<2009年8月○日>

・姉エリサ 中1 陸上100m14秒2
 サイズ 左24.0cm、右24.2cm

・妹エリナ 小4 サッカー
 サイズ 左21.7cm、右21.6cm

当時の記憶をたどる。
たしかその日、お父さんはお仕事の関係で、姉妹を店に残してしばらく外出された。ふたりはお行儀よく店で時間を過ごしていた。
陸上競技をはじめた姉エリサちゃんにはランニングシューズと短距離用スパイクシューズをフィッティングした。
妹エリナちゃんのサッカースパイクシューズは取り寄せなければならなかった。だから、彼女だけは1週間後にもふたたび熊本県からお父さんと一緒に来店してフィッティングを行った。

***

この2回の大阪への旅で、彼女には「鶴橋」という駅名の他にも印象に残ったことが2つあった。
1つ。その店で足型を測定してもらった時に、足の裏がとてもくすぐったかったこと。
2つ。その店のおばちゃんに色々教えてもらったこと。特に、お姉ちゃんは、正しい姿勢での立ち方・歩き方、短距離の走り方や練習方法を熱心に教えてもらっていた。それを見ていた彼女はこう思った。

「自分も大きくなったら陸上競技をやろう。そして、またお父さんに、このお店に連れてきてもらおう。」


2016年春。高校2年生の彼女は三段跳びをはじめた。

彼女は中学生になると陸上部に入った。
走幅跳びをやってみると案外に跳べた。
そのまま走幅跳びが専門種目になった。
中学3年の時には5m27cmまで記録を伸ばした。

高校は県内でも有数の強豪校に進学した。
しかし、彼女の記録は伸び悩んだ。
やっと走幅跳びの自己ベストを更新するも記録は5m29cm、中学時代からわずか2cmしか記録を伸ばせなかった。

2016年春。
高校2年になった彼女は、新しく三段跳びに挑戦することにした。
女子三段跳びは、2017年よりインターハイの正式種目になることが決定していた。
三段跳びをやってみると、自分に合っているような気がした。
それに、まだ競技人口も少ないから、うまくいけば全国インターハイへの進出も狙えるかもしれない。
とにかく、三段跳びのデビュー戦は、4月16日開催の熊本県選手権に決まった。
しかし、その2日前、誰にも想像できないことが起こった。

4月14日午後9時26分。
熊本県を大地震が襲う。

陸上競技どころではなくなった。
熊本県選手権は延期された。
その他、予定されていた競技日程もことごとく中止になった。
被害の大きさに打ちのめされた。
誰にも先行きは見えなかった。
誰もが不安な日々を懸命に生き抜くしかなかった。

熊本の高校生たちは大事なシーズンのはじまりを奪われた。
その中でも6月には全国インターハイ熊本県予選会が行われた。
彼女は走幅跳びに出場。
中学時代の記録にも及ばない5m26cmで第7位。
南九州地区予選にさえ進出できなかった。

延期された熊本県選手権がやっと開催されたのは7月になってからだった。
彼女はその三段跳びのデビュー戦で、11m21cmの記録を残した。
何かをつかんだ気がした。
秋には11m85cmまで記録を伸ばした。
女子三段跳びで南九州の高校生のトップに躍り出た。
光が見えた。
彼女は全国インターハイ出場の夢を抱いて高校3年生になった。

しかし、やっと見えたはずの光は、また彼方にかすんでいった。


2017年春。高校3年生の彼女が熊本空港から飛び立つ。

「熊本の○○です。覚えてますか?」

彼女のお父さんから電話があったのは、今年の5月のことだった。
お父さんによると、彼女は高校最後の大事なシーズンを目の前にして走れなくなったと言う。春先から足に痛みを抱え、ろくに練習できなくなっていた。
お父さんは川見店主に彼女の現状を訴えた。
それを聞いた川見店主は、彼女の走る姿が見えた気がした。
川見店主は、想像しうる彼女の動きの問題点をすべて指摘した。
お父さんは驚いた。

「電話で話すだけでそこまでのことがわかりますか!」

お父さんはその話を彼女に伝えた。
今度は彼女が、その話を陸上部のコーチに伝えた。
コーチは驚いた。

「まったく、そのとおりだ。キミの問題点はそこにある。そのお店は信頼できるな。」

実は彼女も、解決策はないかと自分で色々と調べてはいた。そして、調べるといつも、ある店のホームページにたどりついた。それは、小さい時に行った、あの「鶴橋」のお店だった。

時はふたたびやってきた。

その日も九州の空は晴れ渡っていたはずだ。
8年ぶりに彼女は熊本空港から飛び立った。
お父さんと一緒に、うれしい気持ちだった。

「やっと、あの鶴橋のお店に行ける。」

彼女の運命が、まわりはじめる。

(つづきます↓)
・その2 8年ぶりにやってきた彼女は3足のシューズをフィッティングした

この記事をシェアする
  • B!

コメント

このブログの人気の投稿

【短距離走】たった半年で100mの記録を0.6秒も更新し、全中で4位に入賞した中学2年生スプリンターにフィッティングした7足のシューズとインソールとは?

全中で4位入賞 だいきくんは、中学2年生のスプリンター。 陸上競技の強豪校でがんばってます。 100mの自己ベスト記録は 11秒39 。 今年の夏には 全中(全日本中学校陸上競技選手権) に出場し、 男子4×100mリレー で見事に 4位入賞 を果たしました。 いよっっつ! ――だいきくん、全中出場&男子4×100mリレー4位入賞おめでとうございます! だいきくん: 「ありがとうございます」 ――だいきくんは、何走だったのですか? だいきくん: 「2走っす」 ――全国大会の舞台は緊張しましたか? だいき くん: 「予選は大丈夫だったすけど、 準決勝と決勝はヤバかった っす。めっちゃ緊張しました!」 ――レース後の表彰式で撮影された写真が、「 月刊陸上競技 」10月号に載ってますね。ダイキくんの姿を見つけたときは、とてもうれしかったし、誇らしかったですよ。かっくいー! 2017年8月に熊本県で開催された全中の結果が載ってる「月刊陸上競技」10月号。 だいき くん: 「実は、その写真の時、 めっちゃ落ち込んでた んす」 ――どうして?表彰台に上がって、賞状をもらって、最高にうれしい瞬間じゃないの? だいきくん: 「優勝したチームのタイムが 中学生新記録 だったっす。めちゃくちゃ速くて、勝負にならなかったっす。悔しかったっす」 ――いい経験ができましたね。 だいき くん: 「来年がんばるっす」 ◆ 37年ぶりに日本記録を樹立 ――全中が終わってから、調子はどうですか? だいき くん: 「この前の日曜日(10/9)、 日本新記録 をだしたっす」 ――えっ?日本新記録!? だいき くん: 「 大阪市民陸上カーニバル で、 低学年リレー (※)ってのがあったんすけど、僕はアンカーで走って日本記録を出したっす」 ※【低学年リレー】中学2年生と1年生でチームを編成するリレー。中2が第1走と第4走、中1が第2走と第3走をつとめる。 ――すごいすごい!調べてみたら、なんと1980年以来破られなかった記録を 37年ぶり に更新したって話じゃないですか!ダイキくん、 日本記録保持者 なんだ!」 だいき くん: 「 そうっす(得意気) 」 さらに、いよっっつ!

【中距離走】800mを1分56秒で走る中学生は、なぜ、たった3カ月で記録を6秒も更新できたのか?~中距離ランナーりゅうきくんの話(その1)

中学3年の春、彼の能力は目覚めた。 彼は中学生になって陸上部に入った。 走ることが好きだ、という「自覚」はあまりなかった。 がんばろうという気持ちも、さほど強いわけではない。 本人にも、お父さんにもお母さんにも、わからなかった。 彼の能力は地中深くにあって、誰の目にも触れなかった。 そのまま、中学校の2年間が過ぎた。 中学3年の春。 時は突然にやってきた。 眠っていた彼の能力は目覚め、大地を蹴破り一気に発芽した。 そして、わずか3か月で、途方もない花を咲かせることになる。 話は、2016年5月1日の出来事からはじる。 ◆ 【2016年5月1日 京都市中学校総体】 彼は男子800m決勝のレースで、これまでにない走りっぷりを見せた。 他の選手たちを大きく引き離して独走し、ぶっちぎりで優勝。 記録は2分02秒40。 この快挙に、彼のチームは大騒ぎになった。 観戦していたお母さんは、驚きやら感動やらで涙が止まらなかった。 お父さんは、これは大変なことになったと思った。 全中(全日本中学校陸上競技選手権)の男子800m出場資格は2分01秒。もう少しがんばったら、息子は全中に出場できるんじゃないか? ならば、とお父さんは思う。 できるかぎりの応援をしてやろう。彼の足に合うシューズを買ってあげよう。 色々調べていると、ある店のブログを見つけた。 そこには、同じく800mで全中に出場を果たした、ある男の子のことが書かれていた。 よし、この店に息子を連れて行こう。 思い立つとすぐ、その店に電話を入れた。 お父さんが読んだ「R太郎くん伝説」↓ ◆ 800m2分切りと全中出場を目指して 【2016年5月12日 オリンピアサンワーズ】 ご両親に連れられて、彼はオリンピアサンワーズにやってきた。 長身で細身、優しい顔をしていた。 川見店主は彼に聞いた。 川見店主: 「800mで2分切りたいよね?全中に行きたいよね?」 彼は、一緒に来た小さな妹の遊び相手をしながら、はい、とこたえた。 川見店主は、その立ち姿を見て、彼のランニングフォームが想像できた。 川見店主: 「今の彼は、きっと下半身だけで走ってます。上半身も使って走れるようになれば、800mで2分を切れると思います」

【マラソン】月間150kmの練習でフルマラソンを3時間25分で走れるようになった女性ランナーの秘密とは?

眠っていたのは○○な才能だった スポーツは得意ではなかった。 体育祭はいつも憂鬱(ゆううつ)だった。 中学時代は、いわゆる「帰宅部」。 でも高校では空手部に入ることになった。 友人にこんな風に誘われたのだ。 大丈夫、空手は運動神経とか関係ないから。 「入部してわかりました。関係ないわけないじゃん!って(笑)」 せっかく入ったのでつづけてみた。 自分の中に眠る「何か」の才能が花開くかもしれないし。 3年つづけた結果。 「空手の才能は眠ったままか、元々ないのかのどちらかだったみたいです(笑)」 その後もスポーツとは無縁の生活。 しかし、体力がだんだん落ちていくのが気になりだした。 「これからもっと年齢を重ねたら……って将来のことを考えると、元気なおばあちゃんでいたいなって思ったんです」 ならば、今から足腰を鍛えておかなければ。 6年前から少しずつ走りだした。 マラソン大会なるものがあることを知る。 思い切って地方の大会に申し込んだ。 4.5kmのレース。 「それが、あっという間に走り終わって。せっかく遠くまできたのに、走る時間が短いと来た甲斐がないなーと思ったんです」 今度は10kmのレースに出場。 50分程度で走れた。 5年前(2012)、大阪マラソンに申し込んでみたら当選した。 初めて42.195kmを走ることになった。 それがどんな距離なのかは想像できなかった。 ペースも目標タイムも何も設定できなかった。 完走できるかどうかも、もちろんわからない。 だから、自分の思うままに、カラダの動くままに走りつづけてみた。 「大阪マラソンはレース後半で食べ物がたくさん並んでいるエイドがあるでしょう?そこで、めいっぱい食べて(笑)。それが美味しかったし、楽しかったですね」 初フルマラソンは4時間30分で無事に完走。 以降、毎年フルマラソンに挑戦する。 ・2013/10 大阪 3時間59分 ・2014/10 大阪 3時間57分 ・2015/11 淀川 3時間45分 ・2016/02 口熊野 3時間31分 ・2016/10 大阪 3時間28分 ・2017/02 京都 3時間25分(PB) 走る度に記録を更新。 いつの間にかサブ4からサブ3.5ランナーへ。 眠っていたの

【ハリマヤ】『陸王』がつないだ100年のドラマ~語りつづける者がいるかぎり、襷(たすき)は…。

ハリマヤのシューズバッグとスパイクシューズ 【2017年】100年のドラマが動き出す。 川見店主は、知らなかった。 その人物の本当の名前すらも知らなかった。 だから、会えるとも思っていなかったし、会いたいという願望もなかった。 しかし、川見店主こそが、その人物に会わなければならなかった。 事態は「向こう」からやってきた。 2017年11月某日。 オリンピアサンワーズにかかってきた1本の電話は、まさしく、その人物からだった。 『陸王』 がつないだ、100年のドラマが動き出す。 ***** 【1912年】播磨屋(はりまや)のマラソン足袋 日本のランニングシューズの歴史は、「 播磨屋 (はりまや)」という 足袋屋 からはじまっている。 播磨屋は、1903年に東京大塚に創業された。 創業者は 黒坂辛作 (くろさか・しんさく)。 【黒坂辛作】 播磨屋足袋店創業者 当時、播磨屋の近くにあった東京高等師範学校の学生たちが、この店の足袋を愛用していた。その学生のなかに、 金栗四三 (かなくり・しそう)がいた。 1912年、金栗は日本人で初めてオリンピック(ストックホルム大会)に出場、播磨屋の足袋を履いてマラソンを走った。 オリンピックに惨敗した金栗は、その後、 箱根駅伝 をはじめ多くのマラソン大会を実現するなど、長距離ランナーの育成に生涯を懸けた。そして、黒坂とともに、日本人が世界で戦うための「 マラソン足袋 」を 共同開発 しつづけた。 1936年の ベルリン五輪 では、マラソン日本代表の孫基禎(ソン・ギジョン)選手が「マラソン足袋」で走り抜き優勝。播磨屋は、ついに世界を制した。 日本にマラソンを確立したのは、金栗四三だった。 その時代を足元で支えたのは、播磨屋の「マラソン足袋」だった。 戦後を迎えるまで、日本の長距離選手は「マラソン足袋」で走るのが主流だった。 【金栗四三(1891-1983)】 日本人初のオリンピック選手。箱根駅伝の創始者。「日本マラソンの父」と称される。 やがて、播磨屋は、日本を代表するランニングシューズ・メーカー「 ハリマヤ 」へと発展を遂げる。国内の工場で、職人たちが熟練した技術で作り上げるハリマヤのシューズは、日本人の足によく合い、多くの陸上競技

【ハリマヤ】無名の母たちがつくったハリマヤのシューズ~新潟県十日町市からのおたより

彼女たちこそが 一枚の古い写真。 木造の建物を背景に、きちんと整列した人たちが写る。 そのほとんどが、質素な作業服を身にまとった女性たちだ。 彼女たちは、きっと、市井に生きる無名の庶民の一人ひとりであったにちがいない。 しかし、ある時代において、多くの陸上競技選手やランナーたちを支えていたのは、まさしく彼女たちだったのだ。 ◆ 「いだてん」の足を支えた「ハリマヤ」 今年(2019)1月から毎週日曜日に放送されている NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺」 。主人公は、日本のマラソンを創った 金栗四三 さんです。 金栗四三 (1891-1983) 金栗さんは、 1912年 の ストックホルム五輪 に、日本人初のオリンピック選手としてマラソンに出場、「 播磨屋(ハリマヤ) 」という足袋屋の足袋を履いて走りました。 しかし、北欧の堅い石畳のコースに足袋は弱く、金栗さんは膝を痛め、また日射病に倒れてレースを途中棄権するという悔しい結果に終わりました。 この失敗を糧に、金栗さんは、播磨屋の店主・ 黒坂辛作 さんと、マラソンを走る足袋を共同開発し、遂には、改良に改良を重ねて進化したマラソン足袋、いわゆる「 金栗足袋 」が誕生しました。そして、「金栗足袋」を履いた日本の歴代ランナーたちが、五輪や世界大会のマラソンで優勝する時代が1950年頃までつづきました。 ハリマヤ創業者・黒坂辛作 (1880-?) 播磨屋は戦後にはシューズメーカー「 ハリマヤ 」へと発展。 足袋を原点に持つハリマヤのシューズは日本人の足によく合いました。 また靴職人たちの高度な技術は他メーカーの追随を許さず、国産にこだわるハリマヤの良質なシューズは、長年にわたり陸上競技選手やランナーたちを魅了しつづけました。 残念ながら、ハリマヤは 1990年頃 に倒産しました。 しかし、私たちはハリマヤを忘れてはいません。 オリンピアサンワーズには、今なおハリマヤを愛する人たちから、たくさんの「声」が届きます。そして、みなさんの記憶から、ハリマヤの歴史が掘り起こされています。 みなさんの声↓ ハリマヤ第二の故郷 新潟県十日町市から さて。 先日も、当店のFB(Facebook)に1枚の画像とともにこんなメッセー